きゅうりを思え。
きゅうりにちくわが被さっていると知っている人は
きゅうりのことを知ることができる。
そもそもきゅうりにはちくわが被さっているものと思っている人は
どうでしょうか。
海には刺身が泳いでいると思っている人
結構いるみたいです。
形が変わったものを
それが本来の姿だと思ってしまうことは
良くあることだと思います。
きゅうりにちくわが被さっていることを知っている人は
きゅうりのことをきゅうりだと知っている。
それが分けることができることも知っている。
ちくわは被せてあるものだと知っている。
きゅうりにちくわが被さっているものしか知らない人は
分けることができること自体知らないかもしれない。
伝言ゲームでは、
誰かが被せたちくわであることが忘れられる可能性がある。
ちくわを被せた本人はわかっているけれど、
その被せた人が伝える立場に立ったとき
ちくわを被せたことを(意識的かどうかは関係なく)
言わない可能性がある。
ちくわだけを指してこれが伝えられたものですという危険性まである。
ここに伝言ゲームが成立しない要素が出てきます。
伝えられた人はそこにまたちくわを被せ
ダブルちくわになり、どんどん違うものに変化してしまいます。
きゅうり=アレクサンダーさんの考えたこと
ちくわ=後から付け加えられた何か
もうアレクサンダーさんはいないので
彼が考えていたことは自身の著書や
本人がこう言っていたという伝聞しかありません。
しかしアレクサンダーテクニークには
感覚を通して伝えるものがたくさんあります。
私もたくさん教えてもらいました。
この二つを組み合わせて考えることで、
ちくわをどんどん剥がして
きゅうりってどんなものなのか
もっともっと知りたいんです。
できれば、きゅうりそのものを伝えていきたい。
どうしても私個人の考えという
ちくわを被せてしまうのは仕方ないんですけど
それでも、被せたものに自覚的でありたいです。
自覚的なんて言いましたが、
ほんとにきゅうりが何なのかわかっていないと分けることはできないだろうなあ。