人間は機械ではない。
ここをこうすればこうなる
という単純なものではない。
身体をパーツごとに分けて考えることもできない。
腕は腕だけで成り立ってはいないし、
脚も脚だけで成り立ってはいない。
上半身と下半身も同じ。
頭と身体も。
腕を使って何かするとき必ず全身を使っている。
歩く時も必ず全身を使って歩いている。
そもそも骨と筋肉と分けることも
「動き」の観点からは分けることのできないものだ。
骨で動くわけでもなく
筋肉で動くわけでもないから。
人間を機械のように考えるなら、
筋肉が骨を引っ張って動くと説明できますが、普段私たちが、
脳から指令を出して筋肉を収縮させ骨を引っ張る、
なんてことをやっていますか。やっていませんよね。
動かそうとすら思っていない。
ただやろうとすることをやっているだけで、
コップを取ろうと思っただけで、
信号が青に変わったと思っただけで、
目的の動きができています。
それだけなんです。
その動きに精度を求めるときに
初めて動きを観察するということが必要になってくる。
武道や踊り、楽器演奏など身体を使ってやるものには必要な作業です。
特別なことでなくとも、私たちは身体を使わない動きはないので
私たち全員に関係することです。
その精度をどこまで高めるかが一人一人違ってくるだけです。
解剖学の養老孟司さんが、分子生物学が出てきた頃から
おかしくなり始めたんだというようなことをおっしゃっていますが、
まさしくそうなんでしょう。
分けて考える。
分けて考えたものを組み合わせれば全体が見えるという考え。
パズルを完成させれば一枚の絵が復活する。そういうことなんでしょうね。
復活しません。当たり前です。
初めから終わりまで「まるごと全身」で捉えること。
何か練習しているものがある場合も、
そのパーツだけを取り出して考えるのではなく
別の場所も関係していることを考えに含めながら見ていく必要があります。
動きには、イメージや考え方も関係しています。
養老さん風に言えば、脳と身体は切っても切れない関係なんです。
そもそも脳と身体が連動しない場面はありません。
イメージや考え方が動きを決めているといってもいいくらい。
逆に筋肉的記憶がイメージや考え方に影響しているといってもいい。
腕をこう動かせば、
脚をこう動かせば、などなどは
身体を分けて考えている。
身体を機械のように考えているということです。
身体が分かれていたものを一人の人間にできるのは、
ピノコさんを生き返らせたブラックジャックくらいなものです。