前提=無意識。
アレクサンダーテクニークには大きく分けて2つの流れがあることは
目指すところは同じで書いたのですが、
なぜ片方の流れの方達しか(と言ってもいいくらい)
文章で伝えることをしていないのでしょうか?
もちろん二つの流れのどちらの方も著書はあります。
アレクサンダーさんも4冊書いていますからね。
日本語記事以外はわからないので、
日本語記事限定ではありますが、
なぜ片方の流れの方達は積極的に書かないのでしょうか?
私の答えとしては、
書かないのではなく、書けない、と感じているからなんだと思います。
多分、私の記事のように堅苦しく
レッスンを受けたことがない方にはわかりにくい、
禅問答のような暖簾に腕押し状態になる。
あるアレクサンダーテクニーク教師が、
お酒を飲んだことがない人がソムリエになるための本を読んだだけで
ソムリエになれるなんてことはない、と言うことを言っていました。
実際に体験してみないとわからないことっていっぱいあります。
その体験したことって言葉にするのは難しい。
かなりの言語能力が必要です。
(私は書き散らかしていますからそのようなものは皆無ですが)
わたしは先生の先生の先生がアレクサンダーさんなので
4代目です。アレクサンダーさんとの間に二人いらっしゃいます。
そのお二人の考えや教え方がわたしの中にあります。
お二人ともに教えられたそのままを伝えるということを
おっしゃっていたので、知らず知らず入り込んでいる
お二人の個人的考え以外はそのままのはずです。
わたしもそのまま伝えたい。
特に日本ではガラパゴス化しやすいので
気をつけていかないとどんどん離れていってしまいそうです。
日本人は入ってきたものを
自分達に使いやすいように変えてしまうことが
得意なので、全く別のものになってしまいかねません。
わたしも日本人なのでそうしてしまう可能性は大いにあります。
なるべく本質をとらえ、本質を変えることなく伝えたい。
言い方などは日本人にわかるようにする必要はあると思います。
文化が違うので翻訳する必要はあるでしょう。
なぜ変わっていくことに危機感があるのか。
本質から離れていくということもありますが、
アレクサンダーテクニークを知らない人に
間違って伝わっている現状に苛立ちを覚えていることが大きいです。
先生とは前提が違っていることが多い。
わたしの教えていることのみが
素晴らしいく正義なのだ!と言いたいのではなく、
わたしが教えてもらったことにも
先生が持っていた言葉になっていない前提があって、
そのまた先生にもあって、
もちろんアレクサンダーさんにもあって。
そうしていくうちにどんどん捉え方が変化していく。
しかも、それがそのまま教えてもらったことだと
勘違いしてしまう。
ここが一番問題なんです。
教えてもらったことはアレクサンダーテクニークだ。と。
もしかするとアレクサンダーさんは
もっと別のもの、もっと深いものを体験していたのかもしれない。
アレクサンダーさんが
自分のテクニックを発展させる過程を書いたのも
教え始めてから何十年も立ってからですし、
このテクニックで体験できるものを言葉にするのは難しいです。
解剖学?
生理学?
運動なんちゃら学?
それらにはわたしが求めている答えはありません。
それは全ての科学が抱えている問題と同じく、
全体の中の一部分しか説明できない。
ある一点を取り出してここから見たらこう見える。
反対から見たら?少しずらしてみたら?
考えることの助けにはなりますが、
わたしはそれら全てが一体としてあるものが
一体のままで考えていこうとしています。
前提や言っていることが違っているかもしれない。
そう思えるようになったのは、
「自分でやる」ということがわかってきて、
先生に言われてきたことを
自分で再発見できるようになってきたことも関係しているかもです。
それでもわたしが今、これが本質だろうと思っているものも
全くの見当外れなことなのかもしれません。
その可能性自体は常に持っておこうと思います。