選択の自由という不自由。

2025年10月29日

なんでも選べるという
なにを選んでいいのか、わからない
不自由、不安。

自身の内から立ち上がってくるものからくる確信。
もしくは
そうでしかあり得ないというもの。

ま、そうだよねということは
とてつもなく安心しますし、確信を持てます。

これってなんのことを言っているかというと、
わたしは日本人ですので、
日本語で考えることが一番しっくりくるんです。

仮に英語で考えることができたとしても、
母語である日本語で考えた方が
たぶん、考えが進みます。
もっというと、わたしは大阪の南の方で育ちましたので、
土地の方言で考えた方がしっくりきます。

東京に来た時は、土地の方言を
いちいち翻訳して話していましたし、
考えてもいましたが、もう今では
翻訳せずとも話せるようになりました。
が、それでも、
土地の方言の方がしっくりきます。

このしっくりくるというのは、
選択という観点からみると、
不自由極まりないわけです。

土地の方言でなくても、
日本語でなくても、
英語でなくても、
何語であってもいいわけですが、
わたしがしっくりくるのは
育った土地の言葉、
母から受け継いだ言葉なんです。

これはどんなに風呂敷を広げても、
重箱の隅をつっついても、
同じく言えることではないでしょうか。

親からもらった身体を基に考えるしかない。

もらった身体で何をやっているのか。
育った環境で身につけたこともあるでしょう。
その他いろいろ練習して身につけたこともあるでしょう。

そのことから始めるしかないんです。

なんて不自由なと思うかも知れませんが、
何かの裏付けがあるって、
素晴らしく開放感を感じるんです。
安心感や、確信が持てるんです。

もちろんいいことばかりではありません。
しがらみがともないますからね。

それでも、
根無草状態のふわふわした、
足元がおぼつかない、後ろ盾がない、
そんな状態よりは
生きることに前向きになります。

芥川や太宰のようにはなりにくいでしょう。
なあんてね。

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